TOP MESSAGE 「私とコスモスイニシア」

代表取締役社長
髙智 亮大朗

これまでのご支援に感謝申し上げます。

⾃由闊達な⾵⼟、⼈とのつながりが原点

私の社会人スタートは1990年で、入社時の社名はリクルートコスモスでした。
当時はバブル真っ盛りの時代である一方で、リクルート事件の渦中でもありました。親族などの反対にあいながらも、私自身はリクルートグループの「人」に強烈に惹かれ、躊躇なく入社しました。
リクルートグループの風土は自由闊達で、会う人は皆生意気でヤンチャ。意見を率直に言え、言ったことが実現できる組織文化は、私にとてもフィットしました。
その後バブルが崩壊して、事業も厳しい状況になりましたが、社員の仲間意識や結束力が強く、決してへこたれる雰囲気ではありませんでしたね。
実は、私の配属先は経理部システム課だったのです。不動産会社に入ったのに、やや意外なキャリアスタートでした。
ただ「人」軸で選んだので、社会人人生は充実していました。共に働く人びとはみなおもしろく「自分も負けたくない!」と刺激をもらったことを覚えています。

風土は企業ブランドまで昇華

当時の社風は今も引き継がれています。
採用の基準でも、主体性はもちろんのこと「一緒に働きたいかどうか」を重視しています。
以前リクルートの社是であった『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』を、今も当社の行動指針に掲げているのですが、求める人材像はこれを体現している人ですね。当事者意識や自律性が高い人です。
新入社員であっても、この意識はすぐに培われていきます。なぜなら、先輩に質問をすると、必ず「おまえはどうしたい?」と問い返されるからです。
他人に聞く前に自分の意思を持つことで、たとえ失敗したとしても得られるものはあるでしょう。
社風をあらわすエピソードとしては、「休みの日にも社員と遊んでいる」ことに、外部企業の方に驚かれたこともあります。
当時入社16年目の私は、会社や仲間についてこう考えていました。「週の7分の5、我慢して働いているなんてもったいない。5分の7が過ごせる仲間がいた方が幸せ」だと。

一緒に汗を流した仲間の存在に心が動かされる

私は事業そのものや仕事の成果だけではなく、一緒に頑張った仲間や風景により心が動く傾向にあるようです。
思い起こされるのが、西日本支社長時代です。
当時は事業再生ADRによる再生期間中で、計画上では関西支店を閉鎖する予定でした。その計画の終盤に私が着任しました。支社のメンバーは「経営企画の人間が支社を閉めに来た」という雰囲気が蔓延していました。
そんなネガティブムードのなかで一歩一歩再生の道を仲間と画策し、毎日心が揺さぶられていました。
当時生まれたのが新築分譲マンションの「3メートルバルコニー」です。
マンション建設は、土地いっぱいに建てるのがセオリーですが、桂川に面した敷地のマンション計画にはまだ土地が余っていました。
そこで、どうせ余っているならアウタールームのような巨大なバルコニーを造るのはどうか!?と逆転の発想をしたのです。
最寄り駅までの距離が遠く、販売期間は長期に渡ることが予想されましたが、お客さまから評価され、グッドデザイン賞も受賞しました。
毎日、支社の仲間達と「この土地でしか創れない価値は何か!?」と知恵を絞ったことを覚えています。

京都でのセカンドハウス仕様の分譲マンション提案も思い出深いです。
川沿いの小さな土地でマンション建設計画を立てたのですが、分譲マンションで想定できる販売価格に対して工事費が高すぎることがわかり、支社のみんなで頭をひねりました。
そこで、観光地でもある京都の立地を生かし、東京の人にセカンドマンションとして購入いただける仕様にすることを思いついたのです。例えば住戸内の一部屋だけオーナーがロックできる仕様にすることで、自分が使わない時は友人に貸すこともできますし、家事代行も活用できます。
購入検討されそうなOBなどにもヒアリングしながら計画を作り込み、結果的に40戸くらいがすぐに完売しました。
その裏側では、支社のメンバーが社外の関係各社との調整を頑張ってくれていました。当初の計画からかなり変更したうえになかなか計画がまとまらず、建設会社さんとの関係性が悪化しそうになっていましたが、事業を実現できるよう必死で説得してくれていたのです。今もその業者さんとは良好な関係が続いています。
事業がきっかけとなり、集団が「組織」や「チーム」に変化し、周囲を動かしていく―。
こんな感動を何度も経験しながら、就任時は20数名だった支社メンバーは4年半後には40名以上になり、事業継続に至ったのです。

新規事業を生み出す土台作り

西日本に行く前の新規事業立ち上げも、痺れる経験でしたね。
日本の将来推計人口に鑑みると、当時はマンション分譲だけでは事業がシュリンクすることは見えていました。しかし新規事業は片手間では生まれません。
そこで当時の社長である高木に「新規事業のみを集中して考える部門をつくらないと」と進言したのです。
返す刀で「じゃあ髙智がやれ」となり、新規事業企画課の課長になったのです。メンバーは1名で、たった2名で日々新規事業の企画をしていました。
一日ひとつアイデア出しのノルマを課したり、昼飯は同じ店に行かない!などの独自の工夫をしたりしながら、事業の種を考え続けました。
不安はありましたが、ワクワクして「よし、やってみよう」という気持ちが勝った経験でしたね。
結果的にその部門も拡大され、大規模修繕工事事業の開始をきっかけに大和ハウスグループ3社での大和コスモスコンストラクションという会社設立に至ったり、アパートメントホテルMIMARU(ミマル)や、シェアレジデンスnears(ニアーズ)、行政が所有する不動産を活用するアウトドアリゾートETOWA(エトワ)などが生まれたりしました。
私が西日本から東京へ戻ってくる頃には、事業全体にもだいぶ新たな価値創出の兆しが見え始めていました。

“不動産を、動かそう。”を掲げ、仲間と共に次のステージへ

2020年の10月に社長に就任したのですが、実はかなり意外な拝命でした。
ただし私自身は立場にかかわらず「どういう仲間と、どういう仕事をするか」を重視する姿勢は変わっていません。
創業50年を迎えるタイミングであらためて『不動産を、動かそう。』を掲げて思うのは、お互いがリスペクトしあえる仲間と良い仕事をして、お客さまや世の中から「すごいね」と言われたいということです。胸を張って、新しい提案を続けたいです。
企業の50年生存率は0.7%だそうです。そしてさらに50年存続する企業はごくわずかなのかもしれません。
だからこそ、大きい世界を目指すことよりも、どんな危機に遭遇しても、日々仲間と一緒に動き続ける感覚を大事にしていきたいです。

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不動産を、動かそう。